高岡銅器の歴史と瀬尾製作所のあゆみ

P1020760.JPG利長公の菩提寺、国宝瑞龍寺高岡の金工は、約400年余りの歴史があります。慶長16年(西暦1611年)加賀藩初代藩主、前田利長公が高岡への入城の際、城下町の繁栄をはかるため産業政策の一環として、西部金屋(現在の砺波市と高岡市の市境)から、現在の高岡市金屋町に7人の鋳物師を招き、工場五棟を建てたことが始まりとなります。金屋町のほとりに流れる千保川は当時、庄川の本流であり100m程度の川幅がある大きな河川でした。近くに良質の川砂が採取でき、水も大量に使え、鋳物の産地として適した土地であった金屋の鋳物師は、加賀藩の手厚い保護を受け、高岡の金工は産業として大きく発展していきました。

利長は高岡への入城後、五年でその生涯を閉じます。その翌年、徳川幕府は「一国一城の制」を定めたため、金沢城を持つ加賀藩は高岡城を廃城としなければいけなくなり、高岡の武士は金沢へ移住しました。藩主利常は利長の菩提寺瑞龍寺がある高岡を廃墟にしてはならないと、武士が移住し人口が急激に減少した高岡で、町人の転出禁止令を出すなどして、工商の町として発展させるように配慮しました。このようにして高岡の鋳物産業の基盤は利長公、利常公によって約400年前に作られました。

当時、鋳物で作られていた製品は、砂鉄を原料とした鉄鋳物による鍋、釜、農機具の鋤、鍬、その他、台所用品が主に生産されていましたが、やがて銅器の鋳造も併せて行われるようになりました。これが現在の伝統的工芸品に指定されている高岡銅器の始まりになります。

高岡の金属工業は比較的小規模に2~3人または10人前後の職人で原型や鋳型を作り、地金を溶解し、型へ溶解した金属を流し込んで鋳物を作り、それに着色または象嵌、彫金など施して仕上げまで全て一貫して行っていました。産業も発展し需要が大きくなると、それぞれが専門職として成り立つようになり、分業化されていきました。製品を作る各工程を専門で担当し、分業化することによって産地としての生産性や技術自体も向上し、今でも多彩な金工の技法が存在する産地となっています。その後、金属加工技術や素材は時代とともに進化し、培われた金工の技術は、現在の高岡市の主要産業となっているアルミニウム関連建材の生産などに派生していきました。

DSC_0334.jpg加工工程中の焼きなまし作業
1935年、瀬尾製作所は金工が古くから根付く高岡にて創業しました。金属の板や棒から「曲げ」、「溶接」、「絞り」、「鍛造」などの創業から磨き続けた技術で、銅器の部材作りから、茶道具、仏具に始まり、現在では建材、インテリア関連製品まで幅広くものづくりを行っています。

金属加工は現在も自動車、医療、電子機器など様々な分野で活用されて日々進歩し、近年では3Dプリンターの登場や、いままでに無い溶接方法の開発など、最新の加工法が次々と開発されていますが、伝統的な技法も活用しながら、新たな技術も活用し、金属加工技術を軸に時代にあわせたものづくりを行っていけるよう、努力を続けていきます。